可能性を広げて人生を豊かに。「ディベート道場」

読んだ本のこと

 

 

皆様、ディベートとは何か、ご存知でしょうか。

恥ずかしながら、私はディベートという言葉は知っているものの、実際にどういうものかはあまり知らないままにこれまでやってきました。なんとなく、「議論するもの」、「海外では活発に行われているらしい」というぐらいです。

 

ところで、日常の生活の中で次のようなことを経験したことはありませんか。

・話し合いの場で相手から自分の意見に反対されて、ついカッとなってしまった

・話し合いの場で相手の意見に反対意見を出したところ、口論になってしまった

・新しい提案をしたが、ろくに話も聞いてもらえず内容を否定された

・話し合いの場で正論を主張したら、相手から反発された

・複雑な問題に対してどうすればいいか自分でもわからず、決断することができなかった

 

もしあなたがこのような経験があり、それに対して何か回避できる良い方法はないかな、と感じているとすれば、ディベートのことを知ってみることをお勧めします。

なぜなら、ディベートを知り、その本質を理解することで、なぜ人はそのようになるのか、どう考えればいいのかについて、道筋を自分で見つけることができるようになるからです。

 

 

今回紹介する本は、タイトルの通り、ディベートについて学ぶことができる一冊。

著者の田村洋一 さんは、上智大学で英語を専門的に学ぶ中で競技ディベートに没頭し、日本だけでなく世界的な競技ディベートの大会で何度も優勝した経験を持ち、現在も組織開発というテーマで企業のコンサルティングを行いながら、競技ディベートの審査員や自ら講師やコーチとしてディベート教育の活動を行なっている方です。

今回の本は、そんな田村さんが毎月開催するディベート道場での実践内容をベースにして書かれています。

ディベートをこれから学びたい方にとって、ディベートとは何か、どんな良いことがあるのか、どんなプロセスで行うのか、どうすれば身につくのか、について学ぶことができます。

本来とても高度な対話技術であるディベートについて、難しい言葉はほとんど使わずにわかりやすく説明されており、また具体的な実践方法についても細かく書かれていて、ディベートの入門書としてぴったりの一冊です。

 

ディベートとは何か

そもそも、ディベートとは何でしょうか。

一言で言えば、

1つの論題に対して肯定側と否定側に分かれて議論(試合)を行い、聞き手が判定をする

というものです。

「論題」、「肯定側」、「否定側」、「ジャッジ」

ディベートを構成するのは、この4つだけです。

 

論題は、議論する内容です。競技ディベートでは、「〜すべきである」というような形で定義されます。

例えば、

「日本政府は、日本国の住居者の全世帯を対象に、コロナウィルス対策の経済施策として世帯当たり10万円の支援金を支給すべきである」

というような形で論題が設定されます。

これは、「1+1=2」の様な絶対解が存在しません。

これに対して、「支給すべきだ」という肯定側と、「支給すべきでない」という否定側に分かれて、それぞれなぜそう考えるのかを分析して議論を行います。この時、個人としての自分の意見や考えは関係ありません。自分の意見は一旦完全に思考の枠の外に置いて、試合に挑みます。

肯定側の役割は、

論題を肯定すること

否定側の反論に応えること

否定側の立論に反論すること

否定側の役割は、

論題を否定すること

肯定側の立論に反論すること

肯定側の反論に応えること

です。

それぞれのプレゼンテーションは制限時間が設定され、その時間枠の中でプレゼンテーションを行い、相手の立論に対して反論をします。

ディベートの展開は次の3種類のパートで構成されます。

立論:論題に対して肯定側、否定側がそれぞれ当初の議論を構築

尋問:立論に対する質疑応答

反駁:相手の立論に反論して、自分たちの議論を立て直す

 

ジャッジの役割は、聞き手として肯定側、否定側のどちらにも肩入れせず、公平に、中立的に議論の内容を聞き、判定を下します。

 

ルールとしては、それほど難しいものではありませんね。

では、このやり取りがなぜ大きな意味を持つのか?

次はこれについて考えます。

 

ディベートの意義とは何か?

ディベートは次のような特徴を持っています。

この特徴があることで、ディベートは単純な討論や詭弁による言い負かし合いとは一線を画したものになっています。

 

自分と対立する相手の主張を前提にした議論

ディベートは合理的意思決定のプロセスそのものです。

普通の討論では、自分が正しいと思うことだけを考えて主張しますが、ディベートでは異なる立場からの反論が大前提としてあるため、普通の討論で考えることと真逆の思考が必要になります。

自分が正しいと思うことに対して、その正しさを徹底的に疑うことになります。自分の立論に対して、相手はどういう反論をしてくるだろうか、それに対して自分の論点が正しいと守ることができるだろうか。

この考え方ができず、「自分はこう思う」というだけの主張では相手の反論に対応できず、主張は非常に弱くなってしまいます。

また競技ディベートにおいては、1つの論題に対して肯定側で戦った後に、次は同じ論題で否定側の立場に立って立論するという立場転換も普通にあります。

これが成立するのは、競技ディベートは「競技」だからです。

自分個人の意見や主張は一旦おいておいて、肯定側か、否定側か、その時の自分に設定された立ち位置と視点から、事実を追求していきます。

自分が正しいと思うことを疑い、自分がまだ気づいていないことへと思考の枠を広げることで、多面的に物事を見る力が備わっていきます。

これにより自分の考えが固着してしまうことを防ぎ、柔軟な思考力で相手との対立を乗り越えることに繋がります。

 

人格と議論を完全に分ける、という規律

ディベートの場では、議論することと相手の人格を攻撃することを完全に切り分けて考えます。

互いに相反する主張をするもの同士が議論をしますが、その内容は論題に対しての議論を深めるためのもので、相手の人格を攻撃するためのものではありません。

ディベートを通じてこれに慣れることで、日常でも自分の意見と対立する意見を相手から言われた時に、ひるむことがなくなります。

自分の主張に反論された時についカッとなってしまうのは、反論を自分の人格への攻撃を同じと捉えてしまうためです。自分の人格を否定されたと感じてしまうと、人は誰でも冷静でいることは難しくなります。

相手の主張をフラットな精神状態で聞いて、その内容を理解すること。それに対して自分の主張を組み直し、自分の論点は守りながら相手の言い分も取り込んでより合理的な立論へと導くこと(非常に高度な技術です)が、これがディベートで勝つために必要なことです。

相手の反論を自分への攻撃とみなさず、むしろそれを材料にして、より議論の質を高めることができるようになれば、単純に「議論に強くなる」というだけでなく、自分と対立する意見を持つ相手といかに人間関係を築いていくことができるか、という難しい課題に対してのアプローチへと繋がります。

 

ディベートのことについて正しく知らないと「ディベートは相手を言い負かし合う詭弁大会」と勘違いをされやすいようですが、これまでに書いた内容を考えればそれは間違った認識であるということが理解できると思います。

 

ディベートを学ぶことで得られるもの

 

端的にいうと、ディベートを学ぶことで次のような能力が育成されます

圧倒的な思考力(広く、深く、明晰に、早く)

合理的に意思決定ができるコミュニケーション力

 

圧倒的思考力

競技ディベートでは、「正解がないような問題」を論題として扱うので、問題の内容は複雑です。このため問題の内容を分析していくと、他の問題と連鎖的に繋がっていき、分析する範囲は果てしなく広がります。(それが現実の社会です。)

しかしディベートは競技ですので、自分の意見を立てるためにその分析範囲を定めなければなりません。ディベートで勝つためには思考の広さを掴む能力が必要です。

ディベートでは相手が必ず反論してきます。どれだけ調べて証拠を示しても、それに対して相手が反論してくるのです。そのため「自分の主張に対して、相手はどういう反論をしてくるだろうか」と考えることになり、いやでも思考は深くならざるを得ません。

ディベートでは、肯定側、否定側それぞれの議論の末に、最終的にジャッジが判定を下します。議論の結末として、白黒がはっきりとつきます。第3者が主観を取り除いて客観的に議論の内容を聞き判定をすることで、物事をはっきりさせていくための思考へとつながります。

ディベートでは制限時間の中でプレゼンテーションをしなければなりません。相手の反論内容を素早く理解し、それに対して素早い対応が求められます。早い思考が常に求められる中で、考える速度が鍛えられます。

これらが相乗効果として脳を鍛え、圧倒的な思考力を身につけることにつながります。

 

合理的思考とコミュニケーション

ディベートでは判定を下すのは肯定側、否定側ではなく第三者です。自分の中では確信があったとしても、それが第三者にとって合理的であると伝わり、理解をしてもらわなければ議論として成立しません。

重要なのは、ジャッジである第三者も人だという点です。人なので、もちろん間違うこともあります。このこともディベートの重要な点です。

ごく普通の第三者が善意と誠意を持ってその主張を聞いた時に、どれだけ内容を理解し、共感を得られるか、ということがディベートの勝敗を分けます。

独りよがりな意見では相手には伝わりません。反対する側の意見、第三者への理解、これらへの考えを張り巡らすことにより、自分だけの独りよがりな思考は排除され、自分と異なる主張をする相手と建設的な議論を交わし、第三者から納得を得るための合理的な思考へと繋がっていきます。

 

ディベートは日本人の気質に合うのか?

なぜ日本ではディベートがそれほど普及していないのでしょうか。

これには日本人の「和を尊ぶ」という気質が多分に影響しています。真正面から相手の意見と対立するような主張は、どちらかというと敬遠される傾向があります。

この精神そのものは「相手を尊重する」ということにもつながるので、一概に否定できるものではないでしょう。日本語の豊かな表現は、直接的に物事を言わないという気質から育まれてきたという側面もあります。

では、日本人にとってディベートの思考は不要なのでしょうか。

 

ディベートの記事らしく、次のように論題を定義してみましょう。

「日本ではディベート教育を行うべきではない」

さて、どうでしょうか。

あなたが肯定側なら、どんな主張を考えるでしょうか。

あなたが否定側なら、どんな主張を考えるでしょうか。

 

1つ、否定側の立場を想定して立論してみます。

「和を尊ぶ」ということは大切なことではあるでしょう。しかし人が構成する社会に置いては、場面によって意見は対立するもので、これは回避のしようがありません。では、その時にどうするか。

ここで重要なことが、反対意見を投げかけることと、人格攻撃を分けて考える、と言う視点です。これをごちゃまぜにして考えるから、反対意見=和を乱す、となるわけです。

お互いに意見が異なるもの同士が相手を尊重しながら議論を深めて、客観的に合理的であると考えられる道を求めるプロセスは、「和を尊ぶ」気質の日本社会においても、その有効性を発揮できる場面が多くあると私は考えます。

昔の人も、それを知っていたはずです。そうでなければ「雨降って、地固まる」と言うことわざが生まれるはずもありません。

一人一人の議論に対する意識とディベートへの正しい知識があれば、日本社会においてもディベートは有効なものとなるので、正しい方法でもってディベート教育を積極的に広めていくべきである。

 

 

さて、あなたが論題の肯定側だとしたら、この立論にどう反論するか。

もし日本にディベートは必要ないと判定し、日本からディベート活動を一切排除したとすれば、10年後の日本はどうなっているでしょうか。30年後の日本はどうなっているでしょうか。その時の将来は、今より良くなっているでしょうか。

 

これはディベートの世界では「Fiat(フィアット)」と言われるアプローチの方法の1つで、

もし論題を肯定(否定)したら未来はどうなるだろうか、と「未来の地点」を仮想して、そこから議論するというものです。

 

こんなことを考えるのも、なかなか知的で面白いと思いませんか。

 

 

ちなみに本書では、まさにこの点について筆者の意見が述べられています。その内容はとても説得力があり、納得のいくものでした。

 

可能性を広げて人生を豊かに

 

ディベートの思考法を身につけることができれば、複雑で難解な現実の問題に対して、多面的に物事を捉え、徹底した分析と合理的な対話ができるようになります。

その結果、より多くの選択肢が見えてきます。選択肢を多く持てるということは、人生の可能性を広げることです。

現実世界で起きる様々な問題には、いろいろな側面があるため絶対的な正解は存在し得ません。これを正しく理解し、様々な角度から客観的に物事を見つめることで発見できることはたくさんあります。

こうした気付きは、必ず私たちの人生を豊かにしてくれるはずです。

 

人は皆、主観で生きています。もともと、視野は狭く、思い込みも強い生き物です。

誰もがディベートを関心を持つわけではないし、ディベートの知識を持っていても相手を論破して優越感に浸ることに喜びを感じるような間違った技術の使い方に走ってしまう人もいるかもしれません。

それでも、人はそういうものだと知った上で、自分自身の思考を深めながら相手との相互理解を高めるための合理的な思考力を身につけることは、取り組む価値のあることだと思います。

 

もしディベートについて、多少なりと興味を持たれたのなら、ぜひ一度本書を手にとってみてください。きっと、新しい世界が広がっているはずです。

 

 

以上です。

最後まで読んでいただき、ありがとうございます。