生命を繋いで

考えていること

 

「頑張って勉強してどんなに賢くなっても、最後は結局死んで無くなってしまうのなら、勉強なんてしなくてもいいんじゃない?」

子供の頃にそんなことを考えたことがある人は、きっと私の他にもおられるのではないでしょうか。

「人は何のために生きるのか」なんて、そんな壮大なテーマを掲げて自論をぶちまけるだけの度胸はありませんが、「生きる」ってどういうことだろうと考えるキッカケがあったので、少し書いてみたいと思います。

 

そんなキッカケをくれたのは、リュカさんが書かれた本でした。

あおくんのカブトムシ日記 / リュカ

こちらの本、大きく2部構成になっています。

前半部分:画像付き飼育日記「あおくんのカブトムシ日記」

リュカさんの飼い猫である碧(あお)くんの目線で書かれた、カブトムシの飼育日記

後半部分:童話 「碧(あお)くんとカブトムシ」

飼い猫の碧くんと、もう一匹の飼い猫である海ちゃんが、カブトムシを通して生き物の一生を感じ取る物語

 

前半部分と後半部分は、日記と童話という形式の違いはあれど、全体を通して大きなテーマがあるように感じました。それは、「生命を繋いでいく」ということ。

特にそのことを強く感じたのは、碧くんと、少し弱ったメスのカブトムシとのやりとりです。

少し弱って艶が無くなってきているカブトムシを見ながら、「僕も海も、毛繕いを欠かさないから毛はいつも艶々だよ」と言う碧くんにカブトムシはこんな風に言います。

「私たちには、そんなことをしている時間はないのよ」

そしてその数日後、旅立っていったカブトムシに向けて碧くんが声をかけます。

「大切な時間を、全部使い終わったんだね」

 

ささやかなやりとりですが、とても心に残りました。

カブトムシが成虫になって活動できる期間は、猫や人間の一生に与えられた時間からすれば、あまりにも短いものです。その短い限られた時間の中で次の世代へと命を繋ぐために活動し、そして産卵を終えたら、その儚い一生を終える。まるで「もう自分の役目は終わったよ」と言わんばかりに。

地球上にはたくさんの種の生物が共存していますが、その種全体で考えたとき、「次の世代に生命を繋ぐ」という大きなプログラムに沿って動いているのかもしれません。

仮に生物が生きるのは究極的には「生命を繋ぐ」ということなのだとすれば、カブトムシの生涯はまさにそのことだけに一点集中した、とても凝縮された一生のようです。

私たち人間の一生は、カブトムシの一生の時間に比べたらとても長いものだけれど、この地球上には人間よりもずっと長生きする動物だって存在するし、それこそ星の一生の時間と比べたら、人間の一生なんて瞬き一つの時間でしかない。

でも、そもそも生きる時間の長い・短いを他の生物と比べることなんてナンセンスだな、という考えに行き着きました。

生物の命の本質は、本当はとてもシンプルなものかもしれない。人間は、そこに色々な意味づけをしたくなるものだから、冒頭にあるようなことで思い悩んだりしてしまうのだけれど。

限られた時間の中で生き抜き、その時間を使い終わったら、潔く去る。そんな姿をカブトムシの一生に見たとき、短く太く立派に生きたカブトムシの死んだ姿に思わず敬礼したくなるような気持ちになりました。

 

ところで人間が他の生き物と決定的に違うことの中に、「文字を扱うことができる」ということ、そして「時間の概念(過去、現在、未来という概念)を持っている」ということがあります。

私たちが勉強するのは、私たちの祖先の人たちが築いてきた知恵を受け継ぎ、後世に繋いでいくことにつながります。そして将来を想像し、より良い未来へ繋いでいくことへとつながります。

人間は、自分たちが生きるためにたくさんの他の生物や地球という環境そのものを犠牲にしながら、生かされています。だから人間は、その役割を考えたときに他の生物と少し違うところがあるはずです。それは、人間という種の存続だけじゃなくて、この星に住む他の生き物も守りながら生きていくということ。それは役割というか、それだけたくさんのものを犠牲にして生きている人間に課された、ある種の責任のようなものでしょうか。

 

我が家には、現在ハムスターが二匹と、保護犬が二匹います。彼らから見て、人間はどんな風に映っているのかな、と思います。私からすれば、どうだろう。ペットと言ってしまえば、それはそうなのですが、それだけでは少し切ない気もします。

「縁があって一緒に暮らすことになったのだから、同じ星の上で生きるもの同士、仲良くやろうね。いつか、それぞれが持っている時間を使い終えて旅立つ、その時まで。」

そんな気持ちで一緒に生きる方が、いいかな?

 

以上です。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。