「武士道とは死ぬことと見つけたり」
こんな一節をご存知でしょうか。
私は、高校生の時にこの言葉を知りました。ゲームセンターで・・・。
昔のゲームですが「サムライスピリッツ」という格闘ゲームがありまして、当時ゲームセンターに入り浸っていた私は一時期このゲームの虜になっていました。ストリートファイターのような肉弾的な格闘技とは違う真剣での斬り合いの感覚が斬新だったのと、登場キャラクターがとても個性的だったので、ゲームセンターで初めて遊んだ時からすぐにのめりこんでしまいました。(ちなみにこのゲームの中心的キャラである覇王丸のキャラデザインは、手塚治虫さんのマンガ「どろろ」の百鬼丸が元になっているそうです。)
このゲームの冒頭にあるデモムービーに、この「武士道とは死ぬことと見つけたり」という一節が出てくるのです。
当時ゲームの内容にしか興味を持っていなかった私は、この言葉を深く掘り下げて知ろうとはしなかったものの、ちょっとドキッとさせられるこの言葉が妙に記憶に残っていました。
武士は文字通り命がけの世界で生きていた人たちですから、この言葉をちょっと見ると、「死ぬことこそが本望である」的な解釈にされがちです。
実際に第二次世界大戦時代にも、戦地に赴く若者たちを鼓舞しようとこの一節を引用していたこともあったそうです。
ただ、この言葉の本来の意味は、死を美化するようなものではなく、もっともっと現実を見た武士の思想がありました。
齋藤孝さんによる「図解 葉隠」から、その内容に迫ってみましょう。
武士道の心得を語った「葉隠」
江戸時代中期に、佐賀藩士であった山本常朝が口述し、田代又左衛門陣基が筆録した武士の修養書、それが「葉隠」です。作成にあたって、なんと7年も要したという、全 11巻からなる超大作です。
葉隠が作られた江戸時代中期には、かつてのような戦はほとんどなかったと言います。
元々は君主に仕え、時には戦で斬り合ってでも君主のためにその命を尽くすことが武士の自己実現であったのが、時代も変わり、もどかしい思いで奉公する武士も多かったそうです。
それでも、奉公人として生きていた武士たちの日常には常に死がすぐそこにあったようで、ささいなミスでもすぐ処分され命を落とす、武士たちが理想とする生き方からは程遠い、そんな究極のストレス社会で武士たちは生きていました。
そうした時期が長く続くにつれ、それまでの武士の心にあった武士道というものが廃れつつあったことから、常朝は武士の生き方の美学を葉隠の中に残しました。
「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは、この葉隠に出て来る一節です。
武士道というといかにも勇猛果敢という感じがしますが、実際に葉隠に記されているものの中には、生き死にといった極限の内容だけではなく、むしろ「奉公人として生きる武士が、どのようにこの世に処していくべきか」を詳しく記した処世訓のようなものが多く、「いかに自分の仕事を全うするか」や、「人付き合いの大切さ」などが細やかに描かれています。
武士道とは死ぬことと見つけたり の意味を考える
この意味を考える上で、合わせて見ておきたい一節があります。
毎朝毎夕、改めては死に改めては死に、常住死身になりて居るときは、武道に自由を得、一生越度(おちど)なく、家職をし果たすべきなり。
毎朝毎夕、心を正しては、死を思い死を決し、いつも死身になって居るときは、武士道と我が身は一つになり、一生失敗を犯すことなく職務を遂行することができるのだ。
葉隠 聞書第一、二
葉隠の中心思想がここにある、と齋藤孝さんは言います。
毎朝、毎夕、心を改めては死んでいくという覚悟を意識すること。この「死んでいくということを意識する」ことが、「武士道とは死ぬことと見つけたり」と重なります。
死身とは、死ぬのを恐れない体の在り方、と言い換えます。
一度死んだ身になる、死んだ気になってみる、それが死身。
毎日、朝と夕に「武士道とは死ぬことと見つけたり」と思い、改めて死身になる。
通常、人は自分の死を考えるのではなく、もっと生きたいと思うものです。そこを「人は死ぬものである」と思い直すことで、実際にその死が訪れる時まで、自分が大切だと思う生き方ができるようになる、自分の保身や利害のしがらみから己の考えを切り離し、正しいものを見て生きることができる、そんな内容です。
「死身」の反対の言葉は、「保身」でしょう。
武士道は、普通の生物が持っている生き方とは反対の生き方をすることが、ポイントです。
どんな生物でも、普通は生きるために保身を考えます。しかし武士道はその反対を行く。
それは一つの生きる美学であり、死ぬ美学です。殿様のために自分自身の保身を考えず行動できる生き方を愛している。今の時代では考えられませんが、そういう美学を共有している、非常に文化的な社会でもあります。
結局のところ、「死ぬことと見つけたり」とは、「潔く死ぬのが良い」とか、「早く死ぬ」というのではなく、死んでもいいぐらいの覚悟を持って取り組むことで、世界をよりすっきりと見渡すことができ、保身にとらわれず、自分が大切と思う生き方ができるということです。
毎日、死の覚悟を新たにし、死の覚悟によって生きる覚悟を新たにする、そんな究極の実在主義とも言える思想が、この一節の主軸になっていました。
また、「的外れなことでも、真っ当に向き合って取り組んだ結末のことであれば、たとえ犬死でも恥ではない」ということも書かれています。
一見役に立たないことであったとしても、損得で考えない。役に立たないことの中でも、結果として何かを生み出すことがある、ということですが、理屈や損得で生きず、評価にとらわれない理屈抜きの生き方と考えれば、今の時代にも通じるところが多くあります。
もっと「葉隠」
生き死にということだけでなく、処世訓として書かれた葉隠。
色々な内容がありますので、もう少し他のところも見てみましょう。
武士は当座の一言が大事なり。一言が心の花なり。
武士はその場の一言一言が大切である。この一言が、心に咲く花である。
武士は自分の発言にとても気を使って言葉を発していたようです。
昔は今と違って、ちょっとした言葉のあやが相手を侮辱するかのような表現と取られ、知らず恨みを買ってしまい、その夜に家に乗り込まれて斬られてしまうということが実際に日常としてあったそうです。
だから、一言一言は大切にしなければならない。
ちょっとした一言で、文字どおり身を滅ぼしてしまう。現代のネット社会における炎上と通じるところがありそうです。ただ、今と昔では跳ね返ってくるものの大きさが全く違いますが。
それにしても「心に咲く花」とは、かっこいい表現をするなぁと感じるのは私だけでしょうか。
さては世が末になり、男の気おとろへ、女同前になり候と存じ候。
さては世も末である、男も女のようになってしまっている。
草食系男子ではありませんが、男が女同然になっていると嘆く風潮は、何も現代に始まったことではなくて、江戸時代から言われていることだったようです。
今も昔も、似たようなことを言っているものですね。
最後に
ずっと頭の片隅にあった「武士道とは死ぬことと見つけたり」という言葉、こうして意味を知ってみると、とても重みのある言葉であると感じます。
重要なことは、「覚悟があるか」ということだと思います。
今の時代、何も死ぬことばかり考えるのが正しいわけではないと思いますが、どんな局面でも「自分がどんな覚悟でそれに挑むのか」というのは、とても大切なことだと思います。
武士道は一つの精神のあり方を示していて、生きる上での理念のようなものです。
これが自分の中にしっかり座っていると、ブレのない生き方ができるようになるのではないでしょうか。
「北斗の拳」という漫画に登場する、ラオウという有名なキャラクターがいます。
主人公の宿敵としての存在で、どちらかというと悪役として見られやすいです。しかしその生き様はブレがなく、主人公との死闘の末にも「我が生涯一遍の悔いなし」という名セリフとともに誇らしくこの世を去ります。
このラオウの中にも、間違いなく「武士道」はあったと感じます。そう思うと、ラオウも一人のサムライだったのかもしれません。
自分の一生の幕が閉じるその時まで、まっすぐに正しく生きるための理念であり、美学。
かつて日本に確かに存在していた「武士道」という一つの精神文化を今の時代に合わせた形で引き継ぐことで、私たちの日々も一層輝いたものになる、そんな気がしませんか。
以上です。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
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