究極の自己承認の先に -読みたいことを、書けばいい。-

読んだ本のこと

 

前から気になっていた田中泰延さんの本「読みたいことを、書けばいい。」を読みました。

タイトルから内容は大方予想がつくと思いますが、「文章を書くなら、自分が読みたいと思うことを書くのがいいですよ。」という趣旨の本です。

冒頭のところでも、こんな風に書かれています。

 

自分がおもしろくもない文章を、他人が読んでおもしろいわけがない。だから、自分が読みたいものを書く。それが、『読者としての文章術』だ。

とても分かりやすい内容だと思いますし、特に異論を挟む余地はなさそうです。

しかし、少し読み進めていくうちに、ちょっと戸惑うことになりました。

 

とある一節がどうにも自分の中で引っかかり、読み終えた後も消化不良気味でモヤモヤとした思いが残っていました。

それは次のような一節でした。

 

ターゲットなど想定しなくていい

無数の文章術の本に書かれているのが、「読む人はだれかをはっきりさせて書きなさい」というやつである。

「たった一人のだれかに手紙を書くように書きなさい」というのもある。

これは非常に私を困惑させました。

なぜかというと、それまでに私が読んできた、文章にまつわる書籍に書かれていたことと全く逆のことだったからです。

読み手など想定して書かなくていい。

その文章を最初に読むのは、間違いなく自分だ。自分で読んでおもしろくなければ、書くこと自体が無駄になる。

それは確かにそうなのかも知れないのだけれど、なんとなく分かるようでわからない、、、

そんなモヤモヤした感じが私の中に長く尾を引きました。

 

なぜ多くの文章術に関する本は「ターゲットを想定せよ」と言うのか

気になったので、私がこれまでに読んだことのある文章にまつわる書籍をもう一度読み返してみました。

そうすると、果たして様々な本に「誰に読んでもらうのかを考えること」が重要だと書かれていました。

まず「誰に伝えたいのか」を明確にする

文章は「書き手」と「読み手」のキャッチボールです。「書き手」だけでは、文章は成立しません。ボールを受け取ってくれる人がいる。読んでくれる人がいて、初めて「伝わる文章」は成立します。「読み手」をイメージしないで文章は書くことは、ボールを適当な方向に投げるようなものです。そんなボールは、誰も受け取ってくれません。受け取りようもないのです。

SNSの超プロが教える ソーシャルメディア文章術 / 樺沢紫苑 より引用

すごく納得感のある内容です。

個人的に樺沢紫苑さんの書く文章はとても好きなのですが、贔屓目になってしまってはいけないと思い、できるだけフラットな気持ちを心がけて読み直してもみたのですが、やっぱり納得の内容だと感じます。

 

しかし、「読んでもらう」という目的が多少なりとも存在するのであれば、その文章には必ず読み手が存在するということになります。だとしたら必要なのは、まず「誰が読むのか」「誰に読んでほしいのか」をはっきりと意識すること。つまりは、ターゲットを見極めることです。

プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術 / 印南敦史 より引用

こちらでも、やはり「ターゲットを見極めること」とハッキリ書かれています。最近私が覚えた言葉を張りきって使わせてもらうなら、数学コトバを使って、とてもわかりやすく筋道立てて書かれています。

 

相手に伝わらない作文というのは、相手のことを考えない「一方向的」な文章です。逆に、相手に自分の意図が伝わる作文というのは、「双方向的(インタラクティブ)」という魔法がかかっています。自分の考えをしっかり表明しつつも、相手のことまで推しはかりながら文章を書くのです。自分から相手への矢印だけでなく、相手から自分への矢印も想定している。相手のことを考えて作文しているからこそ、相手に伝わる文章が書けるわけです。

(中略)

作文において、八方美人というのは絶対にあり得ません。自分がどこにいるかもわからず、誰に書いているかもわからない状態で文章を書いて、それがどんな人にも伝わる文章になっている、ということは絶対にあり得ません。

(中略)

自分の立場をブレさせて、誰も彼もに向けた文章を作ろうとしても、結局出来上がるのは誰にも伝わらない文章です。

 

「伝える力」と「地頭力」がいっきに高まる 東大作文 / 西岡壱誠 より引用

やはり、ここでも「読む相手のことを考えること」とされており、相手を想定せずに書いた文章はもはや存在価値すら無いような気がしてきます。

 

スポーツに例えてお伝えすると、「相手が取りやすいような、優しいボールをパスする」イメージです。いきなりそんなスピードで、そんな重いボールを投げられても・・・と思わせないことです。相手が思わず手を出してくなるようにやさしくパスします。すると、相手はそのボールを投げ返してくれ、キャッチボールが始まります。そのキャッチボールの中で、あなたの伝えたいストーリーを、相手が受け取りやすい形で徐々に伝えていくのが良いと思います。

アマゾンで学んだ!伝え方はストーリーが9割 / 小西みさを より引用

こちらもそうですね。文章をボールに例えるあたりは、樺沢紫苑さんの説明とつながります。

いくつか実際の例を挙げてみましたが、やっぱり文章に関する本や何かを伝えようとするためのことについて書かれた本では、読み手のことを考えることが大切だと筆を揃えて書かれていることはもう間違いがありません。

それに、こうして改めて書かれている内容を読み返してみても、さすが「伝わるための文章」を指南している書籍だけあって、どれもこれも「うんうん」と頷いてしまいたくなるぐらい分かりやすく納得感を持って書かれていますので、これらが全くのデタラメだとは思えません。

しかし、田中泰延さんが「読み手のことなんて想定しなくていい」と言っていることもまた、デタラメだとは思えない、何かとても大切なことが秘められているように感じるのです。

これは一体、どういうことなんだろう。

 

なぜ田中泰延さんは、読み手のことを考えなくていいと言うのだろう。

他の人が言っていることと逆なのは、何が違っているからなのだろう。

「ターゲットのことなど、想定しなくていい」のくだりの後の部分を何度も読み返しました。

自分が感じた疑問点について、なるほどと膝を叩く考察が余すところなく展開されていれば、あなたはいまさらなにも書く必要はない。

(中略)

「わたしが言いたいことを書いている人がいない。じゃあ、自分が書くしかない」

読み手として読みたいものを書くというのは、ここが出発点なのだ。

この部分については、「うん?」という感じが残りました。言っている意味はもちろんわかりますが、その真意がまだ掴みきれない印象でした。何か、ここにはもっと考えないといけないことがあるような気がしていました。

その後にも、次のような説明が続きます。

 

・承認欲求を満たすのに「書く」は割に合わない

・何を書いたかよりも誰が書いたか、の方が多くの人にとって重要

・書いた文章が満足かどうか、楽しいかどうかは自分で決めればいいが、その文章の評価は他人が決めることであり、あなたが決めることはできない

・「褒められよう」と思って書いてしまうと、自分が面白くなくなる。書くのがだんだんと嫌になってしまう

 

そうして、「だから、自分が読みたいと思うことを書くべきなのだ」という理論に繋がっていきます。

この流れは、私もよく理解できるのです。

しかし、理解したと思った次の瞬間、

「では、なぜ多くの書籍では『読み手を想定することが大切』というのか?」

という疑問に戻ってしまうのです。

田中泰延さんは、何も「自分が楽しいと思いさえすれば、それでいい」と言っているわけではありません。評価は他者が下すものである、という点を本書でも明記していますし、起承転結など文章構成のことについても触れています。

この点に関しては、「読み手を想定しましょう」と言っている他の書籍と共通しているのです。しかし、どこかで何かが違うから「読み手を想定しなくていい」となっているようです。

一体、どこで道が分かれているのだろう。

なんだか自分の中で堂々巡りになってしまった感じです。

 

小山進というケーキ職人さんのこと

田中泰延さんのいう「読み手を想定しなくていい」の意味を考えているうちに、これは「マーケティングをしなくていい、する必要はない」ということと同義かなと思ったのですが、そう考えてみると、文章術から離れますが考え方として同じスタンスの人がいたと思い出し、一冊の本が浮かび上がりました。

パティシエ エスコヤマ の小山進さんの本「丁寧を武器にする」です。

この小山進さんが書いた「丁寧を武器にする」を読み返してみたのですが、田中泰延さんが言っていることと繋がる内容が次から次へと出てきて、びっくりしました。

以下、小山進さんの書籍「丁寧を武器にする なぜ小山ロールは1日1600本売れるのか?」からいくつか引用してみます。

 

(引用ここから)

独立を目指している人を対象にしたセミナーでよく聞かれるのは、「売れる商品を作るために、どんなリサーチをしていますか?」と言った質問だ。

僕はリサーチやマーケティングを一切しない。

リサーチはマーケティングは、過去のものであり、むしろ新たな可能性の芽を摘んでしまう。お客様自身がわかっていることは調べられるが、気づいてないことは調べられないのだ。

僕は、いつもお客様が今まで気づいていなかったことに気づいていただけるようなスイーツを作りたいと思っている。「本当は、これが食べたいんじゃないですか?」とこちらから、差し出したいのだ。

「どうしたら、自分のお店を持てるようになりますか」

そのような質問をよく受ける。僕は、そういうときはこう答えている。

「自分の中の表現したい想いがあふれるほどになったときに、プロとして独立できるんやないかな」

僕は、今まで誰もやっていなかったことに、いや自分しかできない「小山ならでは」のことを表現したいだけなのだ。

僕がこれからやらなければならないことは、彼らの過去のデータには存在しない。

僕がこれから作っていくのだ。

(引用ここまで。)

 

読んでいくほどに、田中泰延さんと小山進さんが似たことを言っていると強く感じます。

小山進さんは、また別なご自身の書籍で自分自身のことを「自分は地下二階のものづくり人」という表現をしています。

通常、多くの人は地上と地下一階の間を行ったり来たりしながらものづくりをしているそうです。

地上と地下一階の間を行き来するというのは何かと言うと、地上で起こっている出来事や地上に住んでいる人たちの関心ごと、トレンドに合わせて、そういう人たちに「いいね!」と思ってもらい、たくさん売れたり、あの人はすごいと称えられたりすることを目指してものづくりをすることです。

けれど、地下二階の住人は地上での出来事や関心ごとに影響されることがありません。自分の心の中にある晴れた空、心地よく吹く風のイメージを大切にしながらものづくりをするのだそうです。

地上で喝采を浴びるのかどうかではなく、自分の中から生まれてくる想いを大切にして、何かを生み出そうとする。

そんな心意気が似通っているから、田中泰延さんと小山進さんの言うことには共通点が多いのだと、合点がいきました。

田中泰延さんも、地下二階の住人だったんですね。

 

 

「読み手のことを想定しない」というのは、つまり地上界で「売れるかどうかを意識しない」ということなのだとわかりました。

そう考えてみると、「読み手のことを想定しなくていい」と「読み手のことを想定すること」は、一見全く逆なことを言っているようですが、実は対義語ではないということが次第に見えてきました。

 

文章を書いて投稿すれば、それはやはり誰かに読まれます。けれどその文章は、郵便物のように宛先が付いていて「誰それのところに届けられる」というものではなく、不特定多数の人たちが通るところにそっと置かれるようなものだと、田中泰延さんは言います。

自分の中で生まれ、その思いが強くなり、もうどうしても書かずにはいられない気持ちに対して、その気持ちが生まれる元となった事象のことを徹底的に調べ、その上で自分の気持ちを自分に正直に(自分が読みたい、面白いと思えるままに)書く。そして、書いたものが置かれる。

ある時、その書いたものを読んで「これ、面白いなあ」と共感する人が現れたとしたら、それは意図して「伝えた」のではなくて、結果として「伝わった」ということです。

まず先に、自分の中で抑えきれないぐらいになった強い思いがある。その強い思いとは、「売れるかどうか」とは無縁のところにあるはずです。

そしてそれを文章として表現するときに、自分の独りよがりに無茶苦茶に書くのではなくて、伝えたいことが伝わりやすいようにしっかり考えられたものであるべきだということが「読み手のことを想定する」ということです。

「まず、自分が何を言いたいのか」があり、そのあとに「どうすれば伝わるのか」がある。この順番が大切なんですね。

伝えたいという気持ちだけが先走ってしまい、「自分は何を伝えたいのか」が置き去りになったまま「伝えること」が目的になってはいけない。

「売れようと思って書くと、本末転倒になってしまう」

「読み手の欲しがっているものばかり気にした文章を書いてしまうと、自分の書きたかったことがどんどん薄れてしまう」

そういうことを言っているのです。

後になって考えると至極当たり前なことのようですが、一見真逆に見えるようなことが実際はそうではない、という理解に到るまで随分と彷徨いました。

 

究極の自己承認の先に

 

伝えることよりも、自分が伝えたいことを大切にする。自分が伝えようとするものは、自分が面白いと感じられることでいい。そのままでいい。

これだけを読んだら、「そんなこと、わかってる」と多数の人が思うかもしれません。けれど、実際はなかなかそう簡単なことでもないようです。

それは、「人生とは孤独なものである」という一つの真理と関係があることだからです。

人は誰でも一人で生まれ、一人で死ぬ。

人生の本質は孤独にあるというのは、仏教の教えの中にも出てきます。

人生とはひとりぼっちで寂しいものという本質があるから、人は人を愛したいと思い、愛されたいと思う。一人でいると不安になるから、「あなたはそれでいいんですよ」と承認を得て安心したいと思う。それが人の自然な姿なのだと思います。

少し前に映画「アナと雪の女王」で『Let It Go』という挿入歌が大ヒットとなりましたが、これも「あなたは、そのままでいいんですよ」という人の本質に訴えかけるメッセージがストレートに込められた歌だったからこそ、多くの人に受け入れられたのでしょう。

「自分のことをわかってもらった上で、認めてほしい」という気持ちは、承認欲求と言われます。この承認欲求が、人を少しややこしくさせてしまうことがあります。

現代において、自分のことを発信しようとする人にとってインターネットは欠かせないものです。インターネット上で自分のことを発信するのは、自己承認欲求を満たす手段となり得ます。自分の情報を発信したら、その次に「誰かからの好評価を得たい」という気持ち、現代風に言えば、「たくさん『いいね!』が欲しい!」という気持ちに変わるのです。

すると、どうなるか。

最初は自分のことを知って欲しいと思って発信していたものが、いつのまにか「いいね!」をたくさんもらうために発信する、というものにすり替わってしまうのです。

ここに、「読み手のことを想定する」ことを過度に重要視しすぎて「自分が何を伝えたいのか」を見失ってしまう罠があります。

人生は孤独なもの、人から認められることで幸せを感じる生き物、そうであるが故に承認欲求が強くなりすぎて自分を見失ってしまい、欲求不満となって空虚さが一層加速される、なんとも皮肉な話です。

人の本能のようなこの承認欲求をどう乗り越えるのか。

 

これは、同じ時期にたまたま手にした仏教の季刊誌に載せられていた、名取芳彦(なとり ほうげん)という和尚さんが書かれたコラムにヒントがありました。

 

仏教は、あなたが今ここにいるのは、すでに天地や命の大きな流れに、巨大な「いいね!」をもらっているようなものだと説きます。誰に認められなくても、自然が認めてくれていると気づくことが、究極の自己承認といえるでしょう。

他人から認めてもらうことにあまり躍起にならず、自分で自分にOKを出せるようになれたらいいですね。

季刊 『光明』第217号 コラム仏道生き方手帳 著:名取芳彦 より引用

 

ちなみに私はこの季刊誌を定期購読している訳でもなんでもなく、本当にたまたま「漫画で楽しむ仏教」という特集がこの季刊誌の表紙に書かれていたのが目に入り、「なんか面白そう」という理由だけで手に取った、初めて読む小冊子です。この小冊子の存在そのものも、今回初めて知りました。

偶然手に取ったこの少々マニアックな季刊誌に、たまたま私のモヤモヤを晴らす一つの糸口があるとは、お釈迦様も予想してなかったのではないかと思います。

それはさておき、この「他人から認めてもらうことにあまり躍起にならない」「自分で自分にOKを出す」というところが、「読みたいことを、書けばいい。」につながっていくのです。

あれ?「読みたいことを、書けばいい。」は仏教の話だったのかしら?

いえいえ、文章を書くことについての本です。

突き詰めると、文章を書くということは究極的には人の孤独を癒し、人を幸せにすることへとつながる一つの道でもあるのです。

もっと言うと、文章を書くことに限らず、まるで地下二階に住む人たちのように自分の心の中にある青空や吹き抜ける風のイメージを大切にして生きることが、自分自身の生き方を豊かなものへと導いてくれることになるのです。

 

 

マキシマムザ亮君の気持ち 〜音楽でモテたいとか思わない〜

なぜここでいきなりマキシマムザ亮君なのか?という疑問があるかもしれませんが、ちゃんとつながりがあります。

※マキシマムザ亮君(歌と6弦と弟):日本のメタルバンド マキシマムザホルモン のギタリストでありソングライターであり、シンガーでもある方です

田中泰延さんは、このマキシマムザ亮君から指名を受けてマキシマムザホルモンの新作レビュー記事を書かれています。その記事の中で、非常に印象的なことをマキシマムザ亮君が話していました。

 

「俺、音楽でモテたいとか思わないんです。たとえ万が一女の人が抱いてって言ってきたとしても、違う、そうじゃない、俺は友達になりたいんだって思うんです。だってそうでしょう?」

音楽ナタリー マキシマムザ亮君が惚れ込んだサラリーマンの独白 より引用

 

マキシマムザホルモンの音楽を聴いたことがある方にとって、パフォーマンスの場ではないところでのマキシマムザ亮君のこの「友達になりたい」という一連の言葉は、とても真に迫るものがあります。

そしてまたマキシマムザホルモンの音楽を聴いたことがある方ならすぐわかって頂けると思うのですが、彼らの音楽もまた、地下二階から奏でられています。(音楽性を表すアンダーグラウンドという意味でなく、先ほどの小山進さんの話に上がった、地下二階です)

あの歌詞、世界観は地下一階や地上で「売れたい!」とだけ思うミュージシャンには真似できないと思います。あと、あれだけ激しくヘッドバンギングしながら、よくギターを演奏できるなあというのもすごいところではありますが、これも表現を支えるための技術を追求したからこそできることなのだと思います。

自分が追求に追求を重ねて生み出した音楽があり、それを聴いて「いいなあ」と感じてくれた人との繋がりを、自分の一時の快楽のためなんかではなく、友達として大切にしたい人なのだと知ることができました。

 

先に出てきた小山進さんも、自分が伝えたい想いをこれ以上ないぐらい試行錯誤と工夫を練りこんで、それをスイーツという形で世に出している人です。その小山進さんは、こんなことを言っています。

 

僕はただスイーツを作るだけでなく、人とのつながりを丁寧に作りたいのだ。

丁寧を武器にする  / 小山進 より引用

この言葉に込められた気持ちは、マキシマムザ亮君の「友達になりたいんだ」という言葉に込められ気持ちと通じるものがある、そう感じるのは私だけではないでしょう。

 

徹底的に自分と向き合った先に自分の中から生まれたもの、それが音楽でも、ケーキでも、随筆であっても、それが誰かの耳、口、目に触れて、その人とつながること、そんな風にして孤独な人生の中で誰かと繋がれるということ、それ以上に尊く得難いものが果たして他にあるでしょうか。

 

そうして繋がれたお互いの思いは、刹那的な「いいね」よりもはるかに強く長く、人生の中に残り続けるものになるはずです。

 

心の奥からの思いが正しい言葉と共に編み込まれた文章は、おのずと出会うべき人との出会いへと繋がり、その人自身をさらに良いところへと連れて行ってくれると田中泰延さんは言っています。

結果的に、文章を書くことは自分自身の人生や生き方を形作っていくのです。

だからこそ、誰のためでもない、自分の人生を生きるために

自分が読みたいことを、書けばいい。

 

それが、田中泰延さんがこの本を通じて伝えたかったメッセージなのだと

ようやく思い至ることが出来たのでした。

 

余談ですが、田中泰延さんのこれまでに書かれた記事のリンク情報が本書に掲載されていたので読んだのですが、とにかく長いです。平均して7000文字は軽く超えます。でも、面白いんです。つい、うっかり読んでしまう。引き込まれるような力が田中泰延さんの書く文章にはあるようです。

田中泰延さんの記事を読んでいて、よくそんな長い文章を書けるものだなと思って感心したのですが、ここまで書いて改めて自分が今回書いた文章の文字数を見たら8800字を超えていてびっくりしました。自分の思いを正直に書くと、こんなこともあるんですね。

 

 

 

以上です。

こんな長い文章を最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。

 

 

<参考文献>

SNSの超プロが教えるソーシャルメディア文章術 / 樺沢紫苑 サンマーク出版

プロ書評家が教える 伝わる文章を書く技術 / 印南敦史 中経出版

「伝える力」と「地頭力」がいっきに高まる 東大作文 / 西岡壱誠 東洋経済新報社

アマゾンで学んだ!伝え方はストーリーが9割 / 小西みさを 宝島社

感動する説明「すぐできる」型 / 犬塚荘志 PHP研究所

丁寧を武器にする なぜ小山ロールは1日1600本売れるのか? / 小山進 祥伝社

あなたの「楽しい」はきっと誰かの役にたつ / 小山進 祥伝社

季刊 光明 第217号 有限会社 豊山

音楽ナタリー 特集記事 「マキシマムザ亮君が惚れ込んだサラリーマンの独白」 / 田中泰延

 

 

 

 

4 件のコメント

  • すごい!徹底的に考えに考えたのですね。
    わたしもこの本、去年の7月に読みました。わたしはなんとなくストンと入ってきて心が軽くなったんですよね。
    普段の文章ではなく、小説を書いてるときって、どうしようもないくらい内側からでてくるものがあって、そのときはもう他人の事なんて考えてないんですよね(笑)
    これじゃダメだろって思っていたんだけど、この本を読んで、自分が楽しいと思うことを書いて良いのねって楽になったのを覚えてます(笑)
    (なので、オリジナル小説に行き詰まってる去年の夏から秋には、二次小説に走って楽しんで書いてました。楽しんで書いたものに面白かったと感想をもらえて、こちらも嬉しかったのでした)
    MunehitoKiriさんの他の人の本を絡めた解釈、すごくすごく面白かったです!
    なるほど!って唸りました^^
    そして仏教の季刊誌の言葉、こういうすごく絶妙なタイミングでヒントになるような言葉をもらうことってありますよね。
    そういうときのビビビっとくるものには痺れます。

    • 七迦さん、コメントありがとうございます。今回の本、読んで大筋は理解できたのですが、この記事であげた部分がどうしても引っかかってしまって、その部分をクリアーにしないと書けないなあと思ってアレコレと思いつく本や田中泰延さんの文章を読んでいるうちに、いつのまにか仏教の季刊誌まで話が伸びてしまっていて、われながら「遠いところまで来たもんだなあ」と感慨深いものがありましたよ(笑 なので、面白かったと言ってもらえて嬉しいです。
      七迦さんも小説を書く時、徹底的に事実や話の出どころを追求していますよね。この本を読んで、「あぁ、七迦さんも1次資料までさかのぼって、書いているのだなあ」とよく理解できました。そして改めて、書くことへの七迦さんのひたむきさに痺れたのでした。^^

  • こんにちは!
    この本、僕も以前読んでいたのですが、改めてMunehitoKiriさんの記事を読んでなるほど!と思わされました。
    僕自身もブログを始めた頃、文章は「誰かに読んでもらうように、なるべく具体的な読み手を意識して書くようにするのが良い」という趣旨のことを様々な場面で目にしたように記憶しています。
    そんな背景を踏まえて、それでも「読み手など想定して書かなくていい」と言うのはどういうことなのか、その深いところを様々な引用も踏まえて迫っていくMunehitoKiriさんの文章はとても面白く、胸に迫るものがありました。

    • アザラシさん、こんにちは!
      今回の記事を書くのに色々なことを調べなおして書いていたのですが、そうやって書くのが思いのほか楽しかったのが私にとって新しい発見でもありました。文章としてまとめるのは楽ではなかったのですが、読んで面白かったと言ってもらえて本当に嬉しいです。ありがとうございます^ ^
      今回の本、読んでいても楽しかったのですが、その後にいろいろ試行錯誤して記事を書く楽しさも味わえて、一粒で2度美味しい体験が出来ました。

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