名前はよく知っているけれどまだ読んだことがない、今回読んだ「イワンの馬鹿」もそんな中の一冊でした。
「イワンの馬鹿」は、レフ・トルストイ(1828-1910)によって1876年に発表された作品で、馬鹿のイワンと二人の兄(軍人のセミヨン、商人のタラス)、耳の聞こえない妹のマラーニャ、そして老悪魔と三びきの小悪魔の物語です。
古典の名作でもある本作を実際に読んだ印象として、物語として面白く読めるものの、何か釈然としない、モヤモヤしたものが私の中に残りました。
そんなことについて、少し書いてみたいと思います。
馬鹿のイワンという人物について
この物語の主人公イワン、「素朴な生活を好み、自分の手足を使って働くことを好み、ただひたすらに自分に正直に生きる者」として描かれています。また、どれほど他の人から馬鹿にされようと全く意に介さないその姿は印象的で、『自己肯定感』という物質がもし世界に存在するのだとしたら、この物質を凝縮して結晶化させるとイワンになりそうだな、という感じです。
そういった点から見て、清く、慎ましく、自分の手を動かして働く姿には共感するところがありました。
また、食べ物を求める人に対して、怠け者には厳しく「手にたこがあるがあるものはすぐに食事のテーブルにつくことができたが、手にたこがないものは人の食べ残しを食べなければならなかった」という描写はなかなかのインパクトがありましたが、「働かざるもの食うべからず」の精神についても、共感しやすい内容として描かれています。
反面、私にとってモヤモヤしたところもありました。このモヤモヤ感の原因が全て分かった訳ではないのですが、いくつか思うところがありました。
頭を使って働くことへの描写
物語の中で、立派な紳士姿に化けた老悪魔が民衆に向けて「賢いものは、頭を使って働く」ということを説く場面があります。これに対して民衆は全く意味がわからず、そのまま紳士を放置するのですが、このあたりはともすれば「頭を使って働くことに対する侮蔑感」の様なものに転化する危うさがある様に感じました。
トルストイ自身は、この物語を描いた頃、不当に民衆の労働力を搾取する国家権力に対しての怒りの感情が強かった様です。その心境が反映されたのかもしれませんが、単純に「頭を使って働くこと=労働を怠けるもの」という図式になってしまわないだろうか、という気持ちが残りました。
絶対的非暴力の適用例外
この物語には「絶対的非暴力の思想」が描かれているという解釈がある様です。他の国を侵略する兄の行為をイワンが否定する部分もありますし、攻めてくる相手に対してもイワンは相手にしていませんので、この辺りで非暴力の思想が描かれているのだと思います。
ただ、嫌がらせを行う悪魔に対して、イワンはやや暴力的な対応をしています。この点について、なんとなく釈然としません。相手は悪魔ということであれば、暴力は許されるのであろうか、だとすればどこまでが許される暴力で、どこからが許されないのか。屁理屈になりますが、絶対的非暴力と言いながらも悪魔への暴力が許されるのはちょっと解釈に都合が良すぎるのではないか、とも思いました。
あるいは、悪魔を追い払った時のイワンの「けっ、汚らしい奴め」という表現が、私にはあまり魅力的な姿とは映らなかったからなのかもしれません。この点については、原文ではどういう描写だったのかが気になるところでした。
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批判的なことも書きましたが、物語として読んで面白く、また「働くことの大切さ」や「お金に執着することの危うさ」を物語から学び取れるという点も、時代を問わず普遍的に読み継がれる物語の様に思いました。
私自身、自分のモヤモヤ感について、上に書いた私の批判的な内容に対しても「本当にそうなのか?」と何度も考えさせられるところがありますし、もしかしたら、こうやって考えさせられるからこそ、名作と言われるのかもしれません。
現代に生きる私たちにとって「イワンの馬鹿」がどの様な存在として見るべきなのかは、トルストイという作家の人生のこと、その頃のロシアの時代背景、原文との比較、他の翻訳バージョンとの比較など、もっと深く研究することで、今回私が抱いた視点とは違う見え方もあるかもしれないと思いました。
あと余談ですが、挿絵に使われているハンス・フィッシャーの絵がとても魅力的だったことも書き添えておきたいと思います。ボールペンで殴り書きした様なタッチなのに、じっくり見ていると様々な表情がどんどん浮かび上がってくる様なとても不思議な絵で、何度もじっと見てしまいました。
以上です。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。
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