孤塁-双葉郡消防士たちの3.11-

読んだ本のこと

 

3.11 東日本大震災が発生した当時、ごく一部のメディアを除いて、福島第一原子力発電所から半径20キロの圏内に入って取材をするところはなかったそうです。また政府も、屋内退避指示を出してからは30キロ圏内でのすべての地域の取材を禁止していたとのことです。

だから、震災の直後に現地で詳細に状況を報道できたメディアはほとんどなく、どのような状況であったのかはあまり語られることがありません。(震災から何年かのちに、当時の現地状況を伝える特集番組が放送されています)

災害が発生した直後、現地ではどのような災害救助活動が行われていたのか。

本書は、震災直後の被災地で地域の人々を助けるために不眠不休で活動を行なった、地元消防士たちの苦悩と葛藤の記録です。当時、実際に現地で活動し、そして今も活動を続けている66名の福島県双葉郡消防本部の消防士たちから直接話を伺った内容を元に書かれています。

 

その男性は請戸の漁師で、津波に揉まれ、靴も無くしていた。「大丈夫だ!こんなの!歩ける!」救助されると、その男性は言った。しかし、瓦礫で足場が悪く、あたりは薄暗くなっている。笹田と同行した若い職員とで代わる代わるおんぶして、待機している車へと向かった。請戸地区は元の町の姿ではなくなっていた。全てが壊され、海水と瓦礫で覆われていた。

「こんなだったら、俺も死んだ方がよかった」

背中で男性がぽつりと言った。

「命だけでも助かってくれて、良かったんです」

笹田は、そう言いながら瓦礫の中を歩いた。

 

「誰かいますか!」と呼びかけると、風か地響きか、音が聞こえた。唸り声?人の声っぽいな、と思い、胸の高さほどあるプラットホームにのぼると、目の前の瓦礫の中に、灰色の人形(ひとがた)が見えた。腕に電線が絡まっている。「うぅ」という声の主は、その人だった。

志賀は電線を外し、もう一人の職員とホームへ持ち上げようとしたその時だった。「ピーッ」と、笛が鳴った。津波が来る。とっさに、二人はその灰色の身体の首根っこをつかみ、ホームの渡り廊下を目指して全力で走り、階段を駆け上がった。その直後、渡り廊下の下を、どーっという音と共に、津波が通り過ぎていった。

「うそだろう」、志賀はこの時もそう思った。全てが悪夢のような時間だった。

 

上記の引用部分は、大震災発生直後の状況ですが、本書の内容はすべて事実と証言に基づいて書かれていること、そして著者の感情表現はほぼ排除されていることもあって、本書で描かれている震災当時の様子は真に迫ります。

本書での「震災当時」が実際に震災が起きてからのどの時期を指しているのか、起こっていた出来事を時系列で書き出してみました。

3月11日 14:16 福島県沖で大地震発生、直後から大津波発生

    15:42 双葉消防本部が原子力災害「10条通報」の通報を東京電力から受ける

    16:45 続いて原子力災害「15条通報」の通報を東京電力から受ける

3月12日 明け方4時ごろ 来るはずだった全国からの緊急消防応援隊は来ないことが判明

    15:36 原子力発電所の1号機が爆発

3月13日 09:36 原子力発電所構内における給水搬送支援の要請があり原発構内へ

    21:53 地域内での建物火災の消火活動(約6時間後に鎮火)

3月14日 11:01 原子力発電所 3号機の爆発

       3号機爆発で負傷した自衛隊員、東電関係者の救急搬送のため原発構内へ

    21:22 原子力災害対策拠点(オフサイトセンター)の全機能停止、撤退指示

       同時期に福島第2原発に搬送されていた東電社員の病院搬送

3月15日 06:00 原子力発電所 2号機での圧力制御異変、大量の放射線物質放出

       4号機での原子炉建屋における水素爆発

       深夜0時前後ごろ 原発構内における原子炉の冷却要請を東電から受ける

3月16日 06:00前 4号機で火災発生の報告を受ける

     午後より双葉消防本部の消防士の勤務が2交代制に戻る(ここまで不眠不休)

3月17日 自衛隊ヘリによる発電所への空中消火活動があり、テレビで報道される

3月18日 東京消防庁ハイパーレスキュー隊が福島県に入る

3月19日 未明よりハイパーレスキュー隊の放水活動開始

改めて時系列を眺めると、震災直後から次々と被害が深刻化していることがよく分かります。震災発生の3月11日から3月18日のハイパーレスキュー隊が来るまでの期間、双葉郡消防本部は125名の消防士たちだけで救助活動や住民の避難誘導などの活動を行なっていました。また、16日の午後に二交代制に戻るまでの6日間は、すべての消防士たちがほとんど休む間も無いまま、過酷な救助活動を続けていました。

 

放射線被曝を伴う救助活動

時系列のところを見ると、災害発生からすぐに10条通報、そして15条通報が立て続けに出ていることに気づかされます。この10条、15条通報はあまり耳慣れない単語でしたが、原子力災害対策特別措置法の条例に該当する事態が発生した際に出される通報で、意味合いとしては次のようなものです。(詳細は法令原文参照)

10条通報:政令で定める基準以上の放射線量が計測された場合(放射線の漏洩があった場合)

15条通報:原子力緊急事態の発生を示す事象として政令で定めるものが生じた場合(緊急事態宣言)

15条に関して、状態としては「全ての非常用電源喪失」「非常停止の必要時に全ての原子炉停止機能喪失」などがあり、原子炉のコントロールができなくなっている、極めて危険な状態です。

この原子力緊急事態宣言が出された状況下でも、双葉地区の消防士たちは住民の救助活動を絶え間無く行なっていました。放射線被曝の可能性があるため、消防士たちにはポケット線量計を持たされていました。これは、1マイクロシーベルトの積算被曝で「ピッ」と音がなるように設定されています。

しばらくして「ピッ」と音がなり、ハッとした。消防士になって3年目。これまでの訓練では1度も聞いたことのなかった音だ。初めて放射線の存在を認識し、「怖い」という感情がわいた。

災害直後の混乱で正確な情報はほとんど現場に届いておらず、原子力発電所では何が起きているのか、どれぐらいの放射線が周辺地域に漏洩しているのか、そういったことについての正しい情報は全くと言っていいほど、現場にはおりてこなかったそうです。

ほっとした矢先、突如、1時間に1回程度の「ピッ」だったポケット線量計が、1〜3秒に1回、今までとは違うスピードで鳴り始めた。明らかに原発で何かが起き、ここまで放射線が飛んできていることを知らせている。

「まだ死にたくない・・・」畠山は素直にそう思った。

景色は何も変わらないのに、音だけが、身の危険を知らせていた。

大地震の後の余震が続き、同じ地域にある原子力発電所で明らかに異常事態が発生している、そんな中でも救助活動を続けた消防士の活動は、「助かる命を、なんとか助けたい」という一心によるものでした。

しかし、12日の1号機爆発、14日の3号機爆発と原子力発電所の爆発が続き、状況は一層過酷なものへと変わっていきます。そしてポケット線量計の動きは、断続的に音が鳴る状況から、鳴りっぱなしの状況へと変わります。

爆発した直後の原子力発電所へ、乗り込んでいく。もし自分がその立場に置かれたとしたら、一体どう感じるだろう。手元のポケット線量計が鳴る間隔はどんどん短くなっている。震災が起きてすぐに救助活動に当たらなければならなかったから、家族との連絡は取れておらず、家族が無事かどうかも分からない。家族は無事に避難したのだろうか・・・。そんな状況下で、「原子力発電所で怪我人が出ている、救助へ向かうように」という指示を自分が受けたなら、どんな思いだろう。

爆発直後の発電所構内へ救助活動・支援活動に向かった消防士たちの多くが、そんな状況下にありました。「もう自分は死ぬかもしれない」と思い、「怖い、逃げたい」という気持ちと戦いながら、消防士たちは活動を行なっていました。それは文字通り、命を削りながらの活動でした。

「もう、戻ってこれないかもしれない」「自分たちは、捨て石になるしかないのか」そんな気持ちを抱えて、消防士たちは現場へと向かっていました。

 

バトンを受け取ること

孤塁という本書のタイトルは、「孤塁を守る」という言葉から来ています。孤塁を守るという言葉は、「孤立無援の状態にありながら、わずかな人数で物事を進めること」という意味です。震災直後、限られた人数、物資、設備だけで救助活動を続けなければならなかった双葉郡消防本部125名の活動は、まさに孤立無援の孤独な戦いだったろうと思います。

現在、震災があった福島県のいくつかの区域では、いまだ帰還困難区域として設定され、2011年3月11日に出された原子力緊急事態宣言も。私が調べた限りでは、この記事を書いている2022年7月3日時点でまだ解除されていません。双葉郡消防本部があった区域も、帰還困難区域のままです。

そのことを日常の中で意識するのは、どれぐらいでしょう。メディアで被災地の現状が報道されたりすることは、あまり無いように感じます。

双葉郡消防本部の消防士たちは、誰かに顧みられることがなくとも、今も地域を守り続けています。

私自身、被災地の今に意識を向けることが時間とともに減っていると感じている中で、本書の言葉は深く刺さるものがあります。

これほど風化が早いとは思っていなかった、と彼は言った。

事故当時に過酷な活動を続けながら、「ヒーローになる必要はない」とそれらが報じられることもないまま、淡々と孤塁を守り続けた彼らがしばしば口にするのは「忘れないでほしい」という言葉だ。そして「我々の経験を活かしてほしい」、あるいは「教訓にしなければならないようなことは、2度と起きて欲しくない」と。

そして著者が本書のラストに綴る言葉に、衝撃を受けました。

ここまで、私は、「バトンを渡す」という思いで書き続けてきた。どうか、このバトンを、あなたも受け取ってくださることを願う。

 

本書は大きく心を揺さぶられる内容ばかりで、特に4号機の消火活動へ出向く場面に消防士たちがどういう気持ちだったかを思うと、何度読み返しても涙が溢れます。

けれど、そうやって私が本を読んでしんみりしていても、何にもならないんじゃないかという気がして来ました。それでは、バトンを受け取ったことにはならないように思えたのです。

バトンを受け取るって、どういうことだろう。どうすれば、バトンを受け取れるのだろう。

そう思っていた私に、NHKの記事「ぼくが双葉に向かうわけ 千葉・柏市小学6年生の挑戦」は大きな衝撃でした。

詳細はリンク先の記事を読んでいただきたいですが、内容を簡単にいうと、震災直後の双葉消防本部の消防士たちの活動を知った小学生の男の子(渡邉祐輝くん)が、双葉郡の消防士にエールを送るため、各地の消防士と協力して応援メッセージを作り、それを届けるために千葉から福島の双葉郡まで自転車で230キロの距離を走る、というものです。

この記事を読んで、私は「あぁ、祐輝くんはバトンを受け取ったんだな」と感じました。

NHKの特集を通じて双葉郡の消防士たちの姿を知った渡邉祐輝くんが本書を読んだかどうかは分かりません。けれど、渡邉祐輝くんが感じたことと、本書の著者が渡したかったバトンの本質は同じもののように感じました。

「ぼくが双葉に向かうわけ」の記事中でコメントをしている双葉消防本部の金澤消防司令長は、本書「孤塁」の中でも出て来ている方でした。3.11のあの時、被曝をしながら必死の救助活動をされていた方でした。

金澤消防司令長は、渡邉祐輝くんありがとうと感謝の言葉を伝えるとともに、「祐輝くんのエールは、困難な中で活動する私たちの心の支えになっています。」と言います。

それを読んで、あぁそうか、と思いました。

バトンを受けた私がすべきこと、それは事故直後から今までもずっと活動を続けている双葉郡の消防士たちを忘れないこと、そして、地域住民を守ろうと活動してくれている消防士の方達が、その活動を誇りに感じてもらえるように、感謝の気持ちを忘れないことだと思いました。

そして改めて思うのは、消防士という存在の大きさとありがたさです。

消防署は365日開いていて、119番通報は24時間受け付けています。「助けてください」と連絡をすれば、駆けつけてくれる消防士がいつもいるのです。それって、すごい。その存在があることで、地域の人は安心して毎日を過ごすことができます。

その存在のありがたさに対して、感謝の気持ちを忘れないことの大切さを、改めて気付かせてもらいました。

私は毎日の通勤の際に、地元の消防本部の前を通ります。車を運転しているので何をするわけでも無いですが、「いつも、守ってくださってありがとう」と思い、心の中で敬礼をしています。

 

3.11東日本大震災に被災され、亡くなられた方のご冥福を心からお祈り申し上げます。そして、未だ帰還困難区域とされている地域へ住民の方々が戻ることができる日が、1日も早く訪れますことを心から願います。

 

記事は以上です。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。