乱読:
手当たり次第に書物を読むこと
セレンディピティ:
予想外のものを発見すること。 探しているものとは別の価値があるものを偶然見つけること。
Wikipediaより
色々なジャンルの本を興味に任せて読む。一つの専門や好きなジャンルに固執せずに乱読することで、専門主義や瑣末(さまつ)主義が見落として来た大きな宝を捉えることが出来る、と本書の著者は言います。
本書の著者は外山滋比古さん。文学博士であり、英文学者であり、言語学者と言語についての専門家です。そして、2020年の時点で96歳という年齢でありながら、今尚現役で活躍されています。
本書が書かれたのは2016年なので、発行当時で既に93歳です。これだけでも、色々と思うところはありますが、それはさておき、言語における専門学者の著者が乱読を勧めるのはどういうことなのか、見ていきましょう。
乱読の意義とは
著者の言う「乱読」ということについて、本書を読んでいると、上述の「手当たり次第に」と言う意味に少し別な、明確な意図が加わっているように思いました。具体的には次のようなものです。
・書かれていることがらや内容について、全く知識を持っていない状態にあり、先入観なども全くない、まっさらな状態で読むこと
この状態にある本を手当たりしだに読むことについて、著者は乱読と捉えています。
また、セレンディピティについても、「予想外のものを発見する」ということについて、受動的に新しい知識が増えることについてだけでなく、「思わぬアイデアがひらめく」という自分のうちから出てくる能動的な要素もあると考えていて、本書ではどちらかというと能動的な要素としてのセレンディピティを重要視しているようです。
それは、著者の言う乱読の効用からも伺えました。
乱読の効用について、内容や意味がわからないままに文章を読むことで、頭の働きを良くする作用があると著者は考えています。
全く知識が無い状態で読むので、色々とわからない言葉や内容が出てくるのですが、それをわからないままにとにかく読むことの中に面白さを感じることができるようになる、全体としてはわからないのだけれど、その中でも部分的に面白さを感じる能力が身につくと言います。
そうなると、科学的な本、哲学の本、宗教の本など、ジャンルにとらわれずに読むことができ、それが考える力、推察する力の元となり、新しいものを生み出す力、すなわち生きる力へと繋がっていくのです。
乱読は風のように
風の如く、さわやかに読んでこそ、本はおもしろい意味を打ち明ける。本は風のごとく読むのが良い。
本書より
風のごとく読むとは、どういうことでしょう。
それは、一つ一つの言葉を噛み砕くようにしてじっくりと熟読するのではなく、少々わからないところがあっても気にせずに軽い気持ちで流しながら読むことです。
こういうことの中に、意外なアイデアやヒントが隠れていることがあるのだと著者は言います。
どうやら言葉には、その言葉に適した速さというものがあるようです。
これは著者の「修辞的残像」という理論に触れて考えてみます。
ある時、どうしてバラバラに離れた言葉がセンテンスになると切れ目のない意味になるのか、そういういかにもバカげたことが気になった。
本書より
こういうところに疑問が行くところが言語学者たる所以であろうと思いますが、とにかく著者はこれについて考えを馳せたようです。そして行き着いたのが、「言葉には残像作用がある」ということです。
皆さま、英語を勉強したことはありますか。もし勉強したことがあれば、次ようなことを経験した記憶はありませんか。
予習などをしていて、一つ一つわからない単語を辞書で意味を調べる。全ての単語の意味を調べ終わって、ひとつひとつの言葉の意味はわかったのだけれど、文章としてみると、どういうことを言っているのか、いまひとつすっきりしない。
どうでしょう。私は英語の他にも中国語やベトナム語を勉強してきましたが、どの言語においてもこういう経験がたくさんあるんです。
そして、また逆に、こんな経験も。
外国語で、その言葉のネイティブスピーカーの方と話していて、会話の中でわからない単語がいっぱい出てくるのだけれど、不思議と全体としての意味は大体わかる、というような経験。
これについて、私は非常に不思議に思っていました。意味がわからない言葉がたくさん出てくるのに、どうして全体としての意味が伝わってくるのか。
本書で「言葉の残像」という概念を知って、それがわかった気がしました。
ことばはかたまりのようになって並んでいる。うしろのかたまりは、前のかたまりの意味の残曳(ざんえい)と結びつき、それによって意味がかたまる。そのかたまりの一つにこだわって辞書など見ていれば、ことばの流れ、残曳は消えてことばは意味を失う。
外国人に読んでもらうと、説明などきかなくても意味が分かるのは流れができて、ことばの自然が回復されるからである。
本書より
言葉は、ゆっくりとした流れの中では本来の意味を薄れさせてしまうようです。これは、科学的に証明できるような類のものではないと思いますが、体感として納得感があります。
言語を真剣に勉強された経験がある方なら、きっと共感されるのではないでしょうか。
乱読においても、同様です。もともとあまり知識がないところから読むので、これを単語で区切って読むような読む方をしてしまってはダメなのです。わからないなりに、言葉の意味を薄れさせてしまわないように、自然な速度で読むことで、そこに潜んでいる本当の意味を見つけ出すことにつながって行くのだと、著者は言っています。それが、風のように読む、ということです。
自然な速度とは、どれぐらいの速度なのか?という点についてですが、私が思うには「話す時のスピード」がそれに近いのではないかなと思っています。
本からの気づきと行動
本書では、偏った読み方や、知識量だけを求めるような読み方は、考える力を失わせるとあります。色々な方が言っていますが、やはり本は能動的に読むのが良いようです。
そして、読んで「自分にはよくわからなかったな」と思ったり、途中で読み切れずに止まってしまっても、気にしない。
とにかく、気の向くままにどんどん読む。風のように。
読書友達が読んだ本で、面白そうだなと感じたら、それもすぐに読む。
そんな風に、節操なくどんどん本を読んでいこうと思わせてくれる本でした。
また、本書ではセレンディピティについての色々な事例があり、「え、そうだったの?」と思わされるような事例もたくさん紹介されていました。
例えば、ガリバー旅行記。これは児童文学書として有名ですが、元々はこの作者は児童文学書を意識して本作を書いていません。元はなんと風刺作品なのです。なぜ風刺作品が童話として名作となったのか?
また、宮沢賢治の「雨にも負けず、風にも負けず」という詩は日本人ならほぼ誰でも知っているぐらい有名なものの、作者である宮沢賢治自身はこの詩を公には発表していません。どういう歴史があったのか。それがなぜ有名作品になったのか。
いずれの例も、セレンディピティと言える例です。これらは、著者の「読者理論」と「古典理論」とつなげて考察することで、わかりやすく解説されています。
本を読むだけでなく、本を書くひとにとっても、色々と考えさせられる要素がある本だと感じます。
ぜひ一度、手にとってみてください。
以上です。
最後まで読んでいただいて、ありがとうございました。
最近のコメント