少し寄り道して帰りたい時には -終電前のちょいごはん-

読んだ本のこと

 

今回紹介するのは、福岡県にある薬院という場所での小さなレストラン「文月」を中心とした短編集、「終電前のちょいごはん 薬院文月のみかづきレシピ」です。

 

ここは福岡薬院の裏通り、古いビルの二階にある小さなお店「文月」。

オープンするのは三日月から満月の間の夜だけ。店内は窓に向かって置かれたカウンター席と四人がけのアンティークのテーブルひとつだけ。

古いおもちゃや本が少しずつ。どれも居心地良さそうに並んでいる。

本文より

日常生活の中でどこか少し心に傷を負ってしまった登場人物たちが悩みながらも次に向かって進もうとする姿を穏やかな表現で描かれています。

小さなレストランとそのお店を一人で切り盛りする店主(文さん)は、それぞれの登場人物たちの心の傷を癒すキッカケを与えてくれる。けれど、そのお店はなぜか一か月の半分くらいしか空いておらず、月が三日月から満月になる間しか営業していません。

ひとつの物語に一人の主役が設定されているのですが、1つの物語に脇役で出てきた人物が次の物語の主役になっていたりするリレー形式となっています。そして最終章では、それまで明かされていなかった店主の過去や、文月が三日月から満月の間までしか開けていない理由が明らかになります。

ラスト一行に込められたささやかな想いには、優しい暖かさと静かな感動がありました。

 

この本の魅力について

巻末にレシピがついているということを紹介文から知り、どんな料理かな、と興味を持ったことがこの小説を手に取ったキッカケでした。

冒頭に書いたように、日常の中でどこか心に少し傷を負ってしまった、決して完全ではない登場人物たちがそれぞれの苦悩を持ちながらも前向きに生きようとする姿が描かれていて、じんわりと温かい読後感がありました。

また、レストラン文月に出てくる季節の野菜を使った料理(こつまみ)やお酒の表現がとても魅力的でした。実際に作って食べてみたいという気持ちにさせてくれます。

 

「本日のおつまみ三品とビールください」

小さなメモ帳とボールペンを手にやってきた店主に声をかける。一人でこのお店を切り盛りしているようだ。

「『こつまみ』ですね。」

眠そうな目を細めて言う。おっとりしているのにきびきびした動きが、なんだか小動物のようだ。

「こつまみ?」

思わず聞き返すと、

「小さなおつまみだから『こつまみ』なんです」

秘密基地を自慢げに披露する子どものように、嬉しそうにメニューを指差された。確かにそう書いてある。

おつまみならぬ『こつまみ』は季節の野菜を使ったものを中心に用意されているようだ。盛り合わせが来るものと思っていたら、一品一品が順々にやってきた。

最初は皮付きのまま、ぶどうを半分に切って白ワインをかけたもの。

パラリと振りかけてあるエスニックな香りのスパイスがアクセントになっている。

手のひらにすっぽり収まるような豆皿にちんまりと載せられている。

なるほど、「こ」つまみなだけある。思わず、

「かわいか〜!」

と声を上げてしまう。

普段そういうことをしない私でも、ついスマホのカメラを向けてしまう。なんだかままごとのようでワクワクしてきた。

本文「月夜のグリューワイン」より

 

手渡されたメニューには『冬限定!グリューワイン』という文字と湯気のたつマグカップの絵が添えられている。ヘタウマというか、味のある絵だ。

「グリューワインって・・・?」

待ってましたという笑顔を見せて文さんが説明する。

「ホットワインのことです。うちではスパイスやフルーツをハチミツと一緒に赤ワインに漬け込んでいるんですよ。あったまりますよ〜」

注文してしばらくすると、幾何学模様が刺繍されたコースターにレンガ色のマグカップが載せられる。カップを抱え込むと、湯気が顔にかかった。

中を覗くと、よく浸かったオレンジが一切れ入っている。ふ〜っと息を吹きかけ、ゆっくり口に含む。スパイスの刺激とワインの苦味、ハチミツの甘さがいっぺんに重なりあって、体にじんわりと染み渡る。

「北欧風ならグロッグ、フランスならヴァン・ショー。グリューワインって呼び方はドイツ風なんです。作り方に違いがあるのかは・・・どうなんでしょうねえ〜」

わかんないなあ、と他人事のように話すのが可笑しくて、つられて笑ってしまう。

笑い声が途切れたところで、文さんが言った。

「いつもお忙しそうですね」

心に沁み入るような声だった。

本文「月夜のグリューワイン」より

 

オススメのメニューが書かれた黒板を見ると『本日限定』の文字が踊っている。「冬ごもり前のおさかなのスープ」。

「冬ごもりって・・・そうか、もうそんな季節か」

「そうですよ。来週から二月ですから。私は冬眠するのです」

文さんは語尾まできちっと言い切って、自慢げに胸を張る。ついこの間、新年の営業を始めたと思ったら、もう冬ごもりとは呆れたもんだ。寒さにめっぽう弱い文さんは、毎年二月はお店をお休みしてしまう。その間に文さんなりにやることがあるようだが、こちらにとっては一ヶ月の長期休暇に付き合わされることになる。

「じゃ、そのスープ」

トレーがわりにした木の皿の上に、厚みのあるスープボウルが置かれた。サーモンやじゃがいも、にんじんなどがミルクと共に煮込まれている。シチューよりもとろみが少ない。ふわりとハーブの香りもする。

「旨い」

思わず口にする。

「ムーミンが冬に食べたスープですよ」

今日の文さんはいつにも増してまぶたが重い。放っておいたらすぐにでも冬眠に入ってしまいそうだ。

本文「本とおさかなのスープ」より

 

いくつかの代表的な料理には巻末レシピがついているので、実際に作って食べてみたいという気持ちにさせてくれる「後味」も、この本の魅力の1つです。

 

働き方について考える

 

一か月のうち、三日月から満月の間だけ営業する(日数にすると2週間足らず)という特殊な営業スタイルのお店という設定から、以前に本で読んで知った「佰食屋」を連想しました。

佰食屋のスタイルは、こんな感じです。

・営業時間は3時間半

・どんなに売れても100食限定

・残業ゼロ

 

「売り上げを追求しない」、「自分に合った働き方」ということにおいて本書に出て来る文月は百食屋のスタイルに通じるところがありました。

AIが発達して私たちの仕事スタイルや生活スタイルが大きく変わった後には、今は奇抜に見えるかもしれないこんな働き方が、もしかしたらごく普通のものとして受け入れられる社会になっているのかも知れません。

 

この先日本はどんな社会になるのかまだ誰にも分からないですが、一人一人がそれぞれに自分の持ち味や良さを活かした多様な働き方を受け入れてくれる、そんな懐の深い社会となっていくことを願います。

 

 

以上です。

最後まで読んでいただいて、ありがとうございます。